共産趣味者入門ガイド 息抜き編
やぁ同志雪の降る日に凍えるイポーニェッツ諸君! 僕はというと、自宅の前に降り積もった雪で盛大に滑ったよ。どうせ降るならロシアのように、滑る恐れもないくらいに降り積もればいいのにね。
さて、今回のガイドはちょっと息抜き編だ。なぜ今息抜きなのかと言うと、ある同志から貰ったリクエストにお答えするには、資料ではなくて僕の脳内持論を展開することになりそうだったから。入門ガイドは端折っている所はあるとはいえ、基本的に資料に基づく事実なので、イデオロギーに関するお話や持論の開陳は息抜きということにしておくよ。
肝心のリクエストは、大体以下のような感じ*1。
素人目にはロシアの人の大部分はソビエト連邦共産党支配よりむしろ以前の帝政を望んでたんじゃないかと。そして今どういう位置付けなのか気になりまする。
これは実は僕がロシアに興味を抱くきっかけになった考えにとっても近いので、ちょっと語りに入りますよ。レポートのネタを探していた同志はスルーするように。
ソヴィエト・ロシア観の前に
さて、ロシア(あるいはロシア的なもの)を見るときに必要なのは*2、特定のイデオロギーに対する陳腐な善悪論を超越した見方だ。そもそも西側陣営に位置していた日本にいると、何でもかんでも西側民主主義の基準で考えがちだ。90年代中期は、旧共産圏の現指導者が独裁だと声高に報道され、非難されることがあったが、この非難で欠落しているのは、その地域に合った統治の仕方がある、という事実だ。
そもそも、「民主主義」と一言でいっても、例えば「統治責任者その他を国民が選挙する」と「議会その他の合議機関の協議妥結で政策を決定する」というのは内容的に別物だ。前者だけなら大統領でなくて皇帝の選挙でもプロセスだけ見れば似たようなものだし、後者までが根付いているといえるのは一部の文化圏だけ。 そういう理解がなければ、何度見直しても、どれだけ書物を読んでも、ソヴィエト・ロシア観は「ツァーリズムに侵された蛮地」から脱却できない。これはきちんと理解しておいてもらいたい。
ロシア的なもの(統治的な意味で)
ロシアを支配するのに伝統的に必要なものは三つある。恐怖と軍隊と宗教だ。三つではなく二つとする意見もあるが、その場合「皇帝と聖人」と表する。本質は三つと同じだ。
雷帝イワンは恐れられた。ピョートルも然り。歴代の有能なツァーリは常に恐怖される存在だった*3。それを支えてきたのが有能かつ残忍な秘密警察とシベリア流刑、そして暗殺だ。恐怖はロシアの伝統的な政治手法だと言っていい。しかし同時にツァーリは愛されもした。素朴な農民は常にツァーリの熱心な支持者だった。ツァーリらにはロシア正教があったからだ。軍事力も然り。歴代ツァーリもその領袖たちも軍事力により国を治めた。
雷帝はロシア伝統の象徴だ。偉大で恐ろしく、奇妙な愛に満ちている
歴史的な流れから、単純な三つの答えが出てくるわけだ。
ロシアは広大すぎる。民族も多い。この大地で可能な政治手法は、必然的に三つの要素を駆使した強力な独裁制となる。僕らが大好きな多様性とか自由は、この大地ではアナーキズムを生み出す土壌となるだけだ。古代ロシア史を知る上で重要な資料の一つ、『原初年代記』は冒頭でこう語る。
来たりて我等を征服せよ。我等は我等で我等を支配できぬ故に。
ソ連の専制的体質
さて、僕の得意範疇に突入しよう。結論から言ってしまえば、ソ連の専制的体質とはロシア的なものの継承だ。けれども、それは単純なことのように見えて、実は非常に奥深い。
革命初期、ロシアのインテリゲンチャは農民に関して無知であったが、自分たちの拠って立つ大地にも無知だった。彼らは声高に自由と解放を唱えたが、生まれたのはアナキストばかりだった。彼らがしたことと言えば、農奴暴動と貴族の爆殺だ。お世辞にも統治などとはいえない。彼らの多くは野垂れ死んだ。革命の結果を見れば勝利者は誰か明らかだ。ツァーリとロシア官憲に闘いを挑み勝利し、ブルジョワジーの国会を破壊し、新しい独裁制を打ち立てたのは、グルジアの神学校の学生だ。
思想の単純化の成功例は同志スターリンだ。失敗例は同時代のドイツにある
ん? ちょっと待てよ? ウクライナの買官貴族の息子ウラジミール・イリイチはどうしたんだ? 革命の遂行者は彼ではないか? その通り。革命の遂行者は同志レーニンだ。だが、彼が行使したのは恐怖と軍隊だけだ。
社会主義革命には宗教の欠落があった。原始共産主義を唱える宗教は、危険極まりない存在だったからだ。同志レーニンはあくまでも「インテリゲンチャ」の一人であり、自身の理論に束縛されて、恐怖と軍隊を行使はしたが、宗教を用いた統治はできなかった。インテリゲンチャの高邁な思想を、全ての人民にでも理解できるまでに単純化し*4「国教」として定着させたのは、やはり同志スターリンの役割が大きいのだ*5。
恐怖としてのチェーカーと、軍隊としての赤軍、そして宗教としての共産主義(社会主義)。驚く程綺麗に三つの統治の形は継承される。ロシアの大地の伝統なのだ。
共産趣味者入門ガイド3
やぁ、同志そこそこの共産趣味者諸君! 3回目ともなると、君たちもそれなりの共産趣味同志の顔つきになってきたね。でもまだまだ犠牲的英雄精神や労働精神が不足している。
なるべくガイドの流れに脈絡を持たせるよう「主義、思想」→「国家」と持ってきているので、これからその組織の構造や、代表的な部署、人物、出来事、という風に広げて行く予定だよ。これってなーに? という質問にもよく訓練された政治将校が優しく答えてくれるので、安心するといい。
なんでトップが「書記」長なの?
まず、ソ連邦とソヴィエト連邦共産党という二つの組織があることを理解しておく必要がある。つまり、2で述べたように、ソ連邦という国家組織においてトップ、つまり元首にあたるのは最高ソヴィエト(最高会議)議長だ。だが、これは形式的なものであり、そもそも最高会議自体が党の決定を追認する組織でしかないので、実質的なソヴィエト連邦のトップは党のトップということになる。党は全ての人民の前衛機関であり、国家は人民に隷属する存在だからだ、
では党のトップは党首とかではないの? ということになるけど、ソヴィエト連邦共産党には党首という立場が存在しなかった。そこでなんで書記長になったのか、順を追ってみてみよう。
党大会の模様。マルクス、エンゲルスと並び同志レーニンとスターリンのお姿がある
まず、ソヴィエト連邦共産党のトップにあたる部署は「党中央委員会」だ。中央委員会は基本的に党(及び政権与党として政府)の日常業務を執行する場所であり、そのメンバーはソヴィエト連邦共産党党大会で選出される。こう書くと選出権を持つ党大会の方がトップのようにも思えるが、党大会自体は5年に一度の開催であり、そもそも党は配置した現場の人間を差し置いて勝手に仕事をしたり、指示を出すのはいかん、という規則になっていた。これは同じ仕事をいくつもの組織でやるのは合理的ではないためで、業務を監視して「ちゃんとやりなさい」とか「ここはちょっと違うんじゃないの」などというのは認められていたが、どこまでが規則に触れるのか曖昧で、あまり意味をなしていなかった。
さらに、中央委員会の下に「中央委員会政治局」「中央委員会書記局」がある。
書記局は、内部で経済部・建設部・運輸通信部・国防工業部・国際部・党活動部等に細分化されており*1、これらの部がそれぞれ「うちの部署としてはこういう計画をしています」とか、「こういう案ははどうでしょう」と出す。そうすると書記局はこれらの案を取捨選択し、「書記局としてはこういう案がまとまりました」と政治局に持っていく。
政治局はこの書記局の案を検討し、いいと判断したものに許可を出し、実際の政策執行が進められた。
さて、そうなってくると、政策決定権を持つ政治局がトップのように見えてくる。事実、党創設初期は政治局が最高意思決定機関であり、政治局員に選ばれた党員はまさしくエリート中のエリートだった*2。一方の書記局は中央委員会や政治局のサポートを行うための部署であり、地位的にはそれほど重要ではない。局の長である書記長もしかり。
政策立案に邁進する同志スターリンのお姿
それがなぜトップになったかと言うと、同志スターリンが書記長だったからだ。そもそも同志スターリンを書記長に任命したのは同志レーニンで、これは政策決定の場に自分の側近を配置しておきたい、という狙いからだった。同志レーニンの死後、最高指導者の立場を巡って各派閥は競って政治局をコントロールしようとした。しかし、そもそも特定の長が存在しない一政治局員になれたところで、他の派閥の政治局員と擦った揉んだするだけで、コントロールなんぞできるわけがない*3。そこで、同志スターリンは政治局ではなく、大本の人事権、組織統制権を書記局の扱いにしてしまうことを思いついた。
どのようにして人事権と統制権を手に入れたかはここでは省くが、結果的に書記局が党内における主要な決定権を握ることに成功し、書記長が事実上のトップとなった。さらに、書記長が政治局員を兼任することにも成功し、国家の政策を自分で立案し、自分で検討し、自分で決定するというまれに見る強力なポストとなった*4。
共産趣味者入門ガイド2
やぁ、同志能無し諸君! 入門ガイド1で共産趣味のほんの入り口をお見せしたけど、どうだったかな!? ハハハッ(甲高い声で)。いやいやそうじゃねぇんだよ、って思われた同志共産趣味者もいると思うけれど、僕はコミンテルンに忠誠を誓っているので、中共なんかの意見には聞く耳を持たないんだ。つまりそういうわけなので、異論がある場合はルビヤンカで自己批判を行って欲しい。
帝国主義って何?
しばしば共産趣味同志たちが口にする「帝国主義」というのは、資本主義の発展の最終段階を指すんだ。
封建制が終わり新たな時代の主役となったブルジョアジー(資本家)は、相互の激しい競争と労働者からの苛烈な搾取を通じて巨大な財閥、独占企業を形成する。その力は一資本主義国内にとどまらず、巨大な市場を求め国境の外部へと拡大する。つまり、外国を市場として支配し、その民から搾取する。
このように外部へと市場を求めて膨張を続ける段階が帝国主義。この崩壊が社会主義革命ってことだね。
レーニンって偉いの? スターリンとどっちが偉いの?
これは1で解説した社会主義の話にも関わってくる部分だけれど、何を持ってして「相手より優位である」、と位置づけるかで偉いかどうかは変わってくる。同志レーニンは政治的な意味では最高指導者だが、体制の創始者とは言い難い部分がある。
一般的に社会主義「体制」と呼ばれるものが作られたのは、同志スターリン時代のロシア。他の社会主義諸国のそれは、多かれ少なかれその劣化コピーに過ぎない*1。部門別工業省、集団農場、「書記長(総書記)」職の地位、ノーメンクラトゥーラ……。歴史で耳にする、いかにも社会主義的な、こうしたものが作られたのは、全て同志スターリンの時代だ。
だからこそペレストロイカの際、「レーニンに帰れ」というスローガンが打ち出されたわけだ。結局その「レーニンのソ連」、即ち「非スターリンのソ連」は実現しなかったけどね。
「ソヴィエト」って何? 国の名前?
「♪ソーはソ連のソー」なんて歌があったかは定かではないが、ソ連のソはソヴィエトのソだ。「ソヴィエト」とは議会や評議会を意味する単語。単語自体に特別な意味はなく、そのまんま議会と理解しておけばいい。「じゃあソヴィエト連邦って議会連邦? 意味ワカンネ」と思うかもしれないが、これは体制として確立された社会主義を象徴する、実に分かりやすい名前なのだよ。
「ソヴィエト連邦」とは「ソヴィエト共和国」の連邦体(サユーズ)*2という意味で、「ソヴィエト共和国」とは各級のソヴィエトが三権を掌握する体制をとる共和国のことをいう*3。このように、「最も民主的な機関」であるソヴィエトに三権を従属させる制度を民主集中制と呼ぶ。ソヴィエトではプロレタリアートによる独裁が行われているので権力が集中することは何の問題もなく、むしろブルジョワジーに権力を奪取される可能性がある権力分立を否定したわけだ。
ちなみにソ連邦に参加していた共和国は全部で17カ国あり、
- ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
- エストニア・ソビエト社会主義共和国
- ラトビア・ソビエト社会主義共和国
- リトアニア・ソビエト社会主義共和国
- 白ロシア・ソビエト社会主義共和国
- ウクライナ・ソビエト社会主義共和国
- モルダビア・ソビエト社会主義共和国
- グルジア・ソビエト社会主義共和国
- アルメニア・ソビエト社会主義共和国
- アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国
- カザフ・ソビエト社会主義共和国
- ウズベク・ソビエト社会主義共和国
- トルクメン・ソビエト社会主義共和国
- タジク・ソビエト社会主義共和国
- キルギス・ソビエト社会主義共和国
- ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国
- カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国
となる。一見やたら細かいようにも思えるが、これでも正直民族の分類ができているとはいえず、共和国内自治共和国、民族管区に自治単位なしの民族と次から次へと構成単位が追加されていくことになる。こうしたロシア人と多数民族と少数民族、ソ連邦と連邦構成共和国政府と各共和国内の自治共和国政府とで三角、四角関係になり、一気に爆発したのがソ連邦崩壊後の東欧のゴタゴタ。ソ連邦成立時に民族問題を解消できればよかったが、ややこしすぎて正直不可能に近い。
色分けされているのが各共和国(SSR)を表している。この集合がソ連邦
稀に言われる「ソヴィエト・ロシア」とは、この中のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を指す場合が多い。こうした各共和国や自治共和国はもちろん、州や村までに「ソヴィエト」があって、その全てが国家主権の享有主体になるわけだ。ちなみに、勘のいい人は気がついたかもしれないが、カザフ、キルギス、ウズベク、トルクメン各共和国には「スタン」をつけると現在の国名になる。「スタン」には「〜王家」とか「〜の土地」って意味があり、ソ連邦時代には民族自由主義的であるとして、使用することができなかったんだね。
これら数々のソヴィエトの頂点に立つのが「最高ソヴィエト」。連邦の最高機関であり、他のソヴィエト同様、民主集中制。ちなみに連邦会議と民族会議の二院制。なお、この議長がソ連邦の(形式上の)元首*4。議会と言うからには何かしら投票によって決定していたかというと、事実上、党の決定事項に対して追認を与える(拍手する)場所だった。巨大かつ多民族なソ連邦全土の意見を集約する場所として機能していなくもなかったけれど、実際の所、個々の要求全てに答えていては、プロレタリアート独裁が機能しなくなり、民族主義的な多数決思考に陥ってしまう。結果的に、党の決定事項を確認する場所となっていたわけだ。
共産趣味者入門ガイド1
やぁ同志能無し諸君! 先日愚弟のレポートのためにいろいろと革命的講義をしてやったのだが、これがまた面白い程理解していなかった。まぁ奴は反ソ反共の無知な帝国主義者なので仕方がない。千葉にある東京の名前のついたテーマパークで浮かれているがよいのだ。
そんな奴は放っておいて、今回はわざわざこのダイアリーを読んでいるような、共産趣味者に憧れているけれど、基礎的なこともよく分からない、という同志たちのために入門解説をしてみるよ。なんでそんなこと思いついたかというと、丁度蔵書整理中で懐かしい資料が色々出てきたからだよ。
何で同志っていうの?
ソ連邦では西側諸国と違って万民が平等なんだ。だから、「Sir」とか「Lord」のような呼びかけはせず、誰に対しても「同志」か「市民」と呼びかけるんだよ。
共産主義って何だ?
さて、同志たちはそもそも「共産主義」が何か分かるかな。社会主義の違う名称? 平等思想? ニートの理論? 資本主義のアンチテーゼ? じゃあ「資本主義」って何だろう。「社会主義」は何だろう。
まず、資本主義というのは、産業革命以降に西欧*1に出現した段階の経済体系のこと。対して、社会主義とは私有財産制を廃止することで、資本主義のマイナスの側面を是正しようとする政治思想のこと。資本主義自体も現在では思想的な一面を持っているけど、本義としては「主義」とはいうものの、システムの名称であることに注意が必要だ。
その社会主義の中でも、ドイツの学者マルクス、エンゲルスが提唱したものを「科学的社会主義」といい、それ以前の「空想的社会主義」と区別している。ただし、空想社会主義と名付けたのはマルクスとエンゲルスであり、そもそも何が空想社会主義なのか明確に定義はされていない。迷ったら「マルクスとエンゲルスの考えたのが科学的社会主義」と考えればいい。
共産主義とは基本的にはこの科学的社会主義(マルクス主義)に拠る政治思想。じゃあ、何が違うのかというと、共産主義の前段階が社会主義。共産主義はいわば目標であり、到達点(それを追求する政治運動)でもあり、社会主義の答え。そして、共産主義が実現すると「国家」はなくなる。なぜなら、科学的社会主義の理解では、国家や政府というのは支配階級が被支配階級を搾取抑圧するための機構だから。したがって「政治体制」はおろか「政治」自体も消滅してしまうことになる。
つまり、ソ連邦で「実現した」のは「社会主義」であって「共産主義」ではない*2。逆に言うと、共産主義と資本主義ではそもそも現実の体制に則った思想か、理論上の思想か、という根本的な違いがあるので、「共産主義の反対が資本主義」っていうのも安易な発想だ。
ちなみに、修正主義とは主にマルクス主義の「暴力革命必然」という理論を否定して社会改良を推進し、議会選挙に勝利することで社会主義の実現を目指す「社会民主主義」のことを指すんだ*3。
反動主義なる語は反動(進歩に対する抵抗・逆行)に「主義」をつけただけだと思われるので、特に解説はしないよ。
修正主義のように暴力革命を否定するということは、ブルジョアジーの排除を拒否し、卑屈な妥協を意味することになるから、我々はこういう裏切り者を排撃しなければならないんだね。
どうかな? お分かり頂けたかな。
血の日曜日事件
「血の日曜日事件」。105年前の今日、金曜日じゃなくて日曜日だったんだなぁ、ということがよく分かる名前である。同じような名前の事件は実は結構たくさんあるけど、考えてみれば日曜日に流血事件が起きれば全部血の日曜日だ。今回は、というか僕のネタなので当然の如く、ロシアで起きた血の日曜日事件。
歴史の教科書なんかでも必ず記載されている事件だけど、「デモ隊に向けて発砲してロシア革命のきっかけになったよ」程度のことしか書いていない。軽過ぎる。事の重大さが分かっていない。この事件は、もう本当に革命の原点中の原点とも言えるもの凄い重要なポイントを二つ含んでいるんよ。それとちょっと読み解いてみるぜ。
ポイント1 ツァーリ幻想の終焉
そもそもなんで冬宮殿に向けてデモを行ったか、なんてことはwikipediaにでも書いてあるので読んでおいて欲しいのだが、一応言っておくと「労働者の法的保護」を求めるものだった。ほんでここでの労働者とは、産業革命以降急速にロシアにも造営された大型の工場で働く工場労働者やその原料を作り出す炭坑・鉱山の坑夫を意味する。
ロシアでも19世紀半ばには産業革命の波が来ていて、都市部に限定して言えば結構な数の工場が作られていた*1。
その結果として、農村から出てきた貧農*2やもともと都市部にいた職人などが工場労働者や坑夫になった訳だが、この扱いがとにかく悪い。英国やフランスでも工場や炭坑なんかの過酷な労働があったことが知られるが、ロシアの場合は専制政治下でこれが行われるのでたちが悪い。
兵器の生産なんかはとくに力が入れられていた
こうした都市部労働者は反政府運動の温床となっていくわけだが、全部が全部社会革命党のような過激派になるわけでもなく、多くの労働者は素朴なロシア民衆の誰もがそうであったように、「ツァーリに直接お願いすれば、なんとかしてくれる」と信じていた。農奴解放で失望を味わったであろうが、それでも東方版王権神授説的*3な感覚がまだ根強く残っていたわけだ。
時のツァーリはニコライ二世。無害だが有能でもなかったのが不幸
当日デモを主催したロシア正教の司祭で、労働運動の指導者でもあったガポン*4も「皆でツァーリにお願いに行こう!」と言って人を集めていたので、別に鉈とか斧を片手に「ツァーリをぶっ殺す!」とか息巻いていたわけではない。まぁ実際にツァーリにお願いしてもどうにもならないかもしれないが、メッセージのアピールくらいにはなると考えていたのかもしれない。デモ自体もメインイベントみたいな感じで、事件前日とデモ前からゼネストのような集会を開いており、最終日のメインイベントが冬宮殿までの行進となっていた。なんとなくイメージが湧いてきただろう。
さて、合間の話はすっ飛ばして事件後に移ると、結果的にデモ隊の一部に発砲が行われ死傷者が出ることとなる。ちなみに、集会参加者は10万人以上、デモ参加者は6万人ほどで、このうち死傷したのは1000〜5000と言われている。ロシア的に言えば、かすった程...。さて、問題なのは死傷者の人数ではなく、発砲が起きた状況なのだ。「ツァーリへの請願に向かっていた民衆に対し、宮殿警備隊が発砲した」という状況が非常にまずかった。つまり、「ツァーリは労働者の話を聞くつもりがない!」という演出になってしまったのだ。
別にツァーリへの請願で状況が100%変化すると皆が信じていた訳ではないだろうが、ともかくもそんなツァーリへの幻想を完全に打ち砕く事件となってしまった。これを境に「活動」は「革命」へと変化していく*5。ポイントの一つ目、ツァーリ幻想の終焉だ。これは革命において非常に重要な要因の一つだった。ツァーリズムが根強く浸透し、淡くでも残っていたツァーリへの敬愛の念を取り払うのに役立ち、貴族も「ツァーリ」も打倒すべき対象だと印象づけた。
もしこの時発砲が起きず、ツァーリが形だけでもガポンたちに謁見していたら、歴史は変わっていたかもしれない。
ポイント2 暴力装置の必要性
古来、革命が穏やかだった例はほとんどない。大体は二つの派閥のうちどちらかがぶっ殺され、もう片方も散々勢力争いをした挙げ句に消えていく。その過程で必要となるのは暴力装置。もっと単純に言えば、武器を持った連中だ。
初期ロシア革命の指導的立場にあった社会革命党は名前こそ勇ましいが、実態は詩人だの記者だの学生だの落ちこぼれ僧侶だの無職童貞だの、ともかく頭でっかちで冴えない連中が自分の欠点を社会のせいにして管を巻き、爆弾投げ込んで貴族を吹き飛ばしていたボンバーマンのなり損ないのような連中だった。まぁ、そもそも活動の主旨がテロルだったので、社会革命党戦闘団とか実行部隊はいたが、所詮はテロ。ボンバーマンが関の山だ。つまり、エスエルがやっていたことは革命ごっこ、よく言って「反政府活動」にすぎない。
そんな連中を横目に、ある男はこう考えた。
「宮殿の部隊が発砲しただけで、これだけの騒ぎになった。もっと大きな部隊を持ってすれば、プロレタリアートと農民で革命は遂行できる!」
赤軍はまさに革命に必要な暴力装置だった
ここで注意しておきたいのは、当時の「革命」の考え方で、社会革命党にしてもメンシェヴィキにしても、なまじ組織がインテリであるが故に、労働者や農民による革命なんぞ不可能であると考えていた。つまり、中間層にあたるブルジョワジーが革命を遂行し、それを労働者や農民が支援するというブルジョワ革命論。
だが、男ことレーニンはプロレタリアートと農民だけで革命が遂行できることに気がついた。つまり、ロシア国内で圧倒的多数の労働者と農民を武装させ、強力な暴力装置とすることで、貴族やツァーリの排除はもちろん、ブルジョワすらも必要のない革命ができる。プロレタリア革命論の成立だ。後の赤軍の構想*6や、労農同盟の考えもこの辺りから始まっている。理論も金もないが、暴力装置さえ用意できれば、革命は遂行できる*7。ソヴィエトの原点ともいえる主張はここで生まれた訳だ。
おわり
繰り返すが、血の日曜日事件はロシア革命にとって重大な事件だった。その後のロシア革命という革命の性質を決定し、ソヴィエトの構想にすら影響を与えたと言っていい。階層の基盤に当たる労働者の離反を招いたロシア帝国は崩壊していき、暴力装置を用意することに成功したレーニンは、その後の内戦や左派各派閥との抗争に勝利する。
同志レーニンの勝利は必然
ロシア革命の前後においてひとつとして無意味な要素はない。全てが革命の結果へと帰結して行く。その根にある血の日曜日事件。みなさんもちょっと思いを馳せてみてはどうでしょう。
*1:ロシア全土に本格的に工場設備が構築されたのは同志スターリン時代
*2:この頃のロシアでは妙に人口増加が激しく、農地不足で小作面積が減少し、只でさえ少ない取り分がより少なくなってしまい、問題になっていた
*3:王権神授説自体は英国やフランスのカトリック、プロテスタント的な西欧感覚が強い。実際ロシアで王権神授説が存在していたわけではなく、ツァーリズムの補強のために「東ローマ帝国から続く正教会の守護者がツァーリ」という幻想を作っていたにすぎない
*4:このガポンが実は曲者なのだが、それはまた別の時に話します
*5:事件からおおよそ一ヶ月後の2月17日には、ニコライ2世の叔父にあたるセルゲイ大公が馬車に爆弾を放り込まれ爆殺される。犯人は社会革命党(エスエル)の党員だったカリャーエフだった
ソヴィエト的クリスマス
クリスマス。赤い服を身に纏った労農人民が、富の再分配になぞらえて子供達にプレゼントを分け与える革命的行事。そんなことはどうでもいい。
ロシアのクリスマス
ロシアのクリスマスは12月25日ではなく1月7日。これはまぁ常識であろう。ロシア正教会は現在でもユリウス暦を使い続けているので、旧暦の12月25日に対応する現行暦の1月7日がロシア正教のクリスマス。もちろん、教会でミサをあげたり家族で過ごす時期であって、ホテルが繁盛したりワインコーナーがにぎわったりするイベントではない。クリスマスのイルミネーションなんかは12月からあるので、年が変わってもまだまだクリスマス気分ジンゴーベージンゴーベー! というのはちょっと羨ましい。
西側で言う所のサンタクロースに対応するのがマロース爺さんで、まぁ袋担いでプレゼント配るのはサンタと同じ。ただし、プレゼントを開けるのは新年の1月1日。
現在は西側化が進んでいて、若い人たちの中には、24日に祝ってプレゼント交換する習慣も広がっているらしい。
ソ連のクリスマス
そんな行事はない。まぁ、後期になると容認はされなくても黙認はされていたようなのだが、大々的にミサをあげたり、祝ったりするのは禁止されていた。クリスマスってのは当然のことながら宗教的祭事なので、そんなものをするわけがない。
とはいえ12月は同志スターリンの誕生日があったり、戦勝イベントがあったりで、何かとソヴィエト的イベントには事欠かない月でもあるので、賑やかさは西側同様にあった。
んで、市民はどうしていたかというと、こっそり祝ったりはしていた。実はプレゼントを1月1日に開けるのはその名残で、堂々と1月7日に開けてしまうと「クリスマスしてます!」とアピールすることになってしまうので、「これは新年のお祝い! クリスマスじゃないもんね!」という建前。
あと、黙認はされてたので、マロース爺さんとかを飾りの意匠に使うことは許されていて*1、当時のクリスマスカードとかもちゃんとある。カードはこの辺りが詳しい。
Old Soviet Christmas card collection
なかなかクリスマスクリスマスしてるでしょ。ソユーズなんかをモチーフにした変わり種もあるけど。ただ渡すタイミングは1月なので、感覚的には年賀状に近い。
祖父と真珠湾と指宿と
今日は12月8日。ジョン・レノンの命日と言いたい所だが、やはりここは真珠湾攻撃の日。これは譲れない。そして僕の大好きな母方の祖父ちゃんの初の実戦の日でもある。あの日一緒に飛び立った戦友は、みんな自分より二階級上になってしまったと祖父ちゃんは嘆く。そんな状況は僕に想像もできないんだけれど(例えば高校の同級生が、自分以外誰も生き残っていないなんて想像できます?)、だからこそ聞き取って記憶しておかなきゃいけない。
真珠湾
真珠湾の話自体は、それほど物珍しいものでもない。空母から飛び立って、地上目標を攻撃するのが第二波空中攻撃隊の祖父の役目だった。初めて見る外国で、ちょっとワクワクしたそうだが、実際上空につくと煙と炎と飛び回る味方機で、海外旅行気分を味わうような状況じゃなかった、と語る。当たり前だ。
祖父が海外旅行でハワイを訪れたのはそれから60年以上経ってから。何を思ったかアリゾナの慰霊碑に行ってみると、そこにいたガイドの爺さんがネバダの乗組員だったそうな。妙な縁もあるもんだ。
本当はもっと色んな話があるのかもしれないのだけれど、あまり聞いていないので、これくらい。
指宿
ハイクでは書いた話ですが、指宿(いぶすき)って知ってます? 鹿児島県の南端にある町です。特攻隊の基地というと、知覧が有名ですが、あっちは陸軍。海軍の特攻だと神雷部隊なんかが有名ですが、指宿にも海軍特攻隊の基地がありました。
指宿の悲壮さは、その使用した機体にあります。航空機の特攻といえば、零戦などの戦闘機が爆弾を抱えて突っ込む所を想像しますが、ここでは下駄履きの水上機が特攻機に使用されました*1。
零式水偵は800kg爆弾一発、九四式水偵は500kg爆弾一発、零式観測機は250kg爆弾一発を抱え、指宿基地を中継基地として夜に月明かりをたよりに出撃し、沖縄周辺海域に展開する米軍艦船の輸送船を攻撃することが任務だったわけです。お世辞にも快足とはいえない水上機で、夜間とはいえ重い爆弾を抱えての特攻。成果はいうまでもありません。
前置きが長くなりました。
祖父ちゃんが台湾沖航空戦から生還し、神雷部隊の直援となる少し前のこと。予科練でお世話になった先輩から、突然連絡が来たそうです。
「飛曹と飲みたいので、是非指宿まで来い」
指宿は最初から特攻機の基地として使われていた訳ではありませんが、この時期は既に特攻訓練が行われており、どうなるのかは明白でした。
祖父ちゃんは自分が飲めないのに酒を買い込んで、先輩を訪ねました。これから出撃する人に飲めませんなんて言えない! と思い一緒に飲んでいると、
「飛曹は時計を持っているか?」
と先輩が尋ねたそうです。祖父ちゃんが自分の腕時計を見せると、
「こんな時計では恥ずかしかろう。自分はもう必要なくなったから、形見と思って受け取ってくれ」
と腕時計を渡してくれたのです。祖父ちゃんは、
「では、お預かりしておきます」
と受け取りました。
しばらくして、祖父ちゃんに指宿から連絡があり、件の先輩のご家族が遺品を引き取りにきたので、「友人であったお前が渡せ」と言われそうです。そんなこと頼まれても嫌な仕事です。最初は断ったらしいのですが、結局祖父ちゃんが遺品を取りにきた妹さん*2とお母さんに会うことになりました。
思い出話などを基地近くの食堂でして、一通り遺品をお渡したところで、祖父ちゃんは時計のことを思い出し、
「お預かりしておりましたので、お返しします」
と差し出した所、先輩のお母さんはこう言われたそうです。
「息子があなたに形見と差し上げたもの。それを返してなどいただけません。持っていてやってください」
さて、ここで「これがその時計です」とかなれば良かったのですが、残念ながら時計はもうありません。
な ぜ か。
戦後の無一文で喰うにも困っていた時、時計を質に入れてしまい、その後売られてしまったらしいのです。祖父ちゃん!! お陰で餓死はせずに済んだと考えれば、先輩に命を救われたのかもしれませんが......。