よくある映画のような祖父の話

母方の祖父の話

今さら正月の話ですが、酒を飲んでいる時に母方の祖父が終戦時の思い出を語ってくれた。ちょっと興味深い話だったので語ってみよう。ちなみに父方の祖父は咽喉癌で10年ほど前に亡くなっているので、僕が祖父ちゃんと呼ぶのはこの母方の祖父だけ。
祖父は生まれてすぐに母親(僕の曾祖母)が亡くなり、父親(曽祖父)が再婚したまでは良かったが、再婚相手と祖父のそりが全くあわず、家に居づらくなった祖父は予科練に入って家を出た。まさに食うために軍人になろう、と思ったわけ。祖父の年齢から逆算して、予科練を卒業したのは昭和16年。その後しばらくどこかの基地で実地訓練をつんだ後、実戦参加となったようだ。
で、色々あって祖父は台湾沖航空戦に参加することになる。予科練を出てちょっと基地勤務をした程度の自分が大規模作戦参加かよ、と思った祖父はなんか死ぬ気がしたらしい。対艦攻撃の訓練なんてしたことなかったと聞いているから、爆装した零戦かノーマルな零戦に乗っていたんじゃないかと思う。結局祖父は10月15日に撃墜され、帰らぬ人に……にはならず、死を覚悟しながら台湾沖を漂っていたらしいのだけど、運よく台湾から出漁していた漁船に拾われた。付近で戦闘が起きていても出漁するもんなのだろうか。たくましい漁師さんには祖父を救ってくれてありがとうと言っておきたい。
「大戦果」ということになっている台湾沖航空戦なので、本当のことを知っている祖父がノコノコ帰還すれば、そりゃあいい顔されるわけもなく。台湾で療養して戻った祖父は生還した仲間たちと共に即南京。じゃなかった。軟禁。死んだことにされて消されなかっただけマシなのか。そのまま本土警備員状態で一連の菊水作戦などもスルーされた祖父だが、そろそろ行ってもらおうかという空気が漂い始めたときに終戦となった。
その頃になると同期も8割方戦死し、終戦の報を基地で聞いた祖父にも「死に遅れた。申し訳ない」という気持ちがあったそうだ。それは他の人たちも同じだったようで、基地内で「戦友の後に続こう」ということで自決される方がかなりいた。祖父も最初はそんな気持ちだったようだが、切れ味の悪い日本刀で割腹してもがき苦しみながら亡くなった上官を見て一瞬でそんな気は吹っ飛んだ。そりゃそうだ。というか祖父は戦後に結婚しているので、そこで死なれたら僕がいない。そんなこんなで祖父は死ぬことはなく、今でも僕と酒を飲めるわけだ。
ちなみに、父方の祖父は満州で軍用犬の研究をしていたという、どこかの漫画の主人公の親父みたいな人だったらしい。そういえば、家に遊びに行くとやたらたくさん犬がいた。手を上げると伏せるんですよ。