マッチョの簡単なまとめ

今さらだけど巷でマッチョマッチョ言われているので、久しぶりに「コナン・ザ・グレート」を見ました。wikipediaのマッチョの項目に出てくるだけあって、やはりマッチョと聞くとシュワルツェネッガーが思い浮かぶようだ。ということで、ここではマッチョ観について考えてみよう。

シュワルツェネッガーとくれば

そのお隣はスタローン。この括りは一般的にはマッチョ同士ということだが、初期の頃を見るとボディビルダーだったシュワルツェネッガーの体に比べると、スタローンの体は締まってはいるけどシュワルツェネッガーほどではない。ビキビキとムキッくらいの差がある。今でこそ2人ともムキムキだかプヨプヨだか曖昧な肉体になってはいるが、「鋼鉄の男(76年)*1」と「ロッキー(76年)」を見れば、肉体は対照的な2人だ。マッチョという括りでは同じ2人だが、そこには厳然たるマッチョ観の違いが存在する。

マッチョ転換期

そんな2人がなんとなく同一視ほどではないけど「同じ立ち位置なんじゃね?」と思えなくもない感じになるのが、「コナン・ザ・グレート(82年)」と「ランボー(82年)」あたりから。とは言え、この頃のスタローンはまだムキムキ程度なので、言うなれば古き良きマッチョ香が漂う感じだった。ここが1つのマッチョ感の転換期だと個人的には思っていて、ジョン・ウェイン的なマッチョの延長にいたのがスタローンだったわけだ。「ナイトホークス(81年)」のスタローンなんかはヨーロピアンな香り漂うルトガー・ハウアーと対照的な移民アメリカな雰囲気を纏っていて、意外にかっこいい。
色々亜流な流れもあるが、簡単に括ってしまえばこうだろう。

時代 マッチョ イメージされる時代
ウェイン 1930〜1960 ピュアアメリカン・ボクサータイプ 1900〜1940
スタローン 1960〜今 不良ボクサータイプ 1960〜1980

ウェインは79年に亡くなっているので、自分以降のマッチョ観など知る由もない。ウェインの死が西部開拓から続く初期マッチョ観の終了でもあったわけだ。では転換期をむかえて、続くマッチョ観はスタローンだったのか。これが違う。スタローンはあくまで初期マッチョのイメージとその当時のリアルさを程よく持った「つなぎ」にすぎない。転換期によって変わったマッチョ観はシュワルツェネッガーに向かう。

シュワルツェネッガーというマッチョ観

コマンドー(85年)」と「ランボー2(85年)」は誰もがマッチョ観が変わったことを思い知る作品になる。82年に現れたシュワルツェネッガーというこれまでとは違うマッチョ観が炸裂した瞬間であり、スタローンがシュワルツェネッガーのマッチョ観に屈した瞬間でもある。
特殊部隊というにはいささか目立ちすぎな肉体が、機関銃やらロケット砲やら担ぎ敵を吹き飛ばしていく。潜入するなどと言っていたのに、即突撃に変更。80年代ハリウッドアクションの典型ともいえる光景がこの2作品ではお楽しみいただけるが、「ランボー」の時点ではスタローンはそこまで爆発もムキムキも殺害もしておらず、「ランボー2」になって突如として変貌している。まるでシュワルツェネッガーそのままなこのスタローンの姿は、マッチョ観が完全に変わったことを意味している。ウェインから流れていたマッチョ観はここで完全に変わるのだ。上の表でのスタローンのマッチョ観も完全に置き換わってしまう。

時代 マッチョ イメージされる時代
シュワルツェネッガー 1970〜今 ビキビキボディビルタイプ 1980〜1990

新しいマッチョ観の登場だった。

マッチョ終息

90年代中盤まで刑事やら兵士やら消防士やらに至るまでシュワルツェネッガーのマッチョ観は行き渡り、どっちがスタローンだかシュワルツェネッガーだか分からないくらいで、パロディーのネタにされたりするほどだった。ところが、90年代後半、2人は奇妙なことをする。「バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲(97年)」でシュワルツェネッガーは別に自分ではなくても良いような銀粉を塗りたくったピエロみたいな悪役を演じ、「コップランド(97年)」でスタローンは下手糞なサスペンス風味の刑事ドラマみたいなことをやたのだ。そこにはどう見てもマッチョ観がない。頑張って笑いやシリアスを求めたが、結局筋肉がピクピクしているような、何とも言えない違和感が漂う。
その後2000年代に入っても2人はそれなりにマッチョらしく振舞うが、妙に脚本を捻ってみせようとしたり、人間ドラマを織り込もうとしたり、オカルト方向に走ったりと迷走する。足掻き。新しいマッチョ観が登場したのではなく、マッチョ観そのものが終わりつつあった。時代がもうマッチョを求めていなかった。97年のあの時に、マッチョはもう主役ではなく、おまけになってしまった。「そういえばそういうのもいるよね」と言われるマッチョ。もはやそこにはウェインから続くマッチョの姿はなかった。
このマッチョ終焉の理由は大きく分けると2つ考えられる。1つは後継者が現れなかったことだ。プロレスラー上がりの俳優や、でかいだけで筋の通ったマッチョ観を持たない監督兼プロデューサー権脚本家権俳優など、見た目はマッチョでも中身の伴わないマッチョ風の新人ばかり。
2つ目は、マッチョの細分化。主流のマッチョ以外にも無数の亜流マッチョが発生し、末端に至ってはマッチョの欠片も存在しない物まであった*2。各人それぞれが自分の仮託しやすいマッチョ観を見出せるようになり、なおかつ進めば進むほどマッチョそのものが薄まっていき、最後にはマッチョですらなくなったのだ。もはやマッチョは終焉を待つだけになっている。

マッチョは消え去るべきか

マッチョ観は肉体の充足、物質的なものの満足感を意味するものである。したがって、物質的な満足を十分すぎるほどに得ている今、我々が求めるのは精神の安息である、という主張は一理ある。つまり愛の仕方とか、魔法とか、おっぱいとかを求めているのだ。
しかし、マッチョの本質は物質的な部分ではない。健全な肉体にこそ健全な魂が宿るように、マッチョこそが精神の安息を得る上で必要不可欠なものなのだ。必要なのはスピリチュアルでも20世紀の少年でもない。マッチョである。今一度、我々はマッチョを見つめなおすべきなのだ。

最後まで読んだ奴

マッチョって言えばスタローンとシュワルツェネッガーだろ。常識的に考えて。「ナイトホークス」はマジでオススメなので見てごらんなさい。

*1:正確にはドキュメンタリー映画なのだが、まぁフィルムなので

*2:2000年代初期に起きた「ブラッド・ピットにクール・マッチョ観が見出される」とした一連の亜流マッチョ論争はその最たるものであろう