共産趣味者入門ガイド3

やぁ、同志そこそこの共産趣味者諸君! 3回目ともなると、君たちもそれなりの共産趣味同志の顔つきになってきたね。でもまだまだ犠牲的英雄精神や労働精神が不足している。
なるべくガイドの流れに脈絡を持たせるよう「主義、思想」→「国家」と持ってきているので、これからその組織の構造や、代表的な部署、人物、出来事、という風に広げて行く予定だよ。これってなーに? という質問にもよく訓練された政治将校が優しく答えてくれるので、安心するといい。

なんでトップが「書記」長なの?

まず、ソ連邦ソヴィエト連邦共産党という二つの組織があることを理解しておく必要がある。つまり、2で述べたように、ソ連邦という国家組織においてトップ、つまり元首にあたるのは最高ソヴィエト(最高会議)議長だ。だが、これは形式的なものであり、そもそも最高会議自体が党の決定を追認する組織でしかないので、実質的なソヴィエト連邦のトップは党のトップということになる。党は全ての人民の前衛機関であり、国家は人民に隷属する存在だからだ、
では党のトップは党首とかではないの? ということになるけど、ソヴィエト連邦共産党には党首という立場が存在しなかった。そこでなんで書記長になったのか、順を追ってみてみよう。
党大会の模様。マルクスエンゲルスと並び同志レーニンスターリンのお姿がある
まず、ソヴィエト連邦共産党のトップにあたる部署は「党中央委員会」だ。中央委員会は基本的に党(及び政権与党として政府)の日常業務を執行する場所であり、そのメンバーはソヴィエト連邦共産党党大会で選出される。こう書くと選出権を持つ党大会の方がトップのようにも思えるが、党大会自体は5年に一度の開催であり、そもそも党は配置した現場の人間を差し置いて勝手に仕事をしたり、指示を出すのはいかん、という規則になっていた。これは同じ仕事をいくつもの組織でやるのは合理的ではないためで、業務を監視して「ちゃんとやりなさい」とか「ここはちょっと違うんじゃないの」などというのは認められていたが、どこまでが規則に触れるのか曖昧で、あまり意味をなしていなかった。
さらに、中央委員会の下に「中央委員会政治局」「中央委員会書記局」がある。
書記局は、内部で経済部・建設部・運輸通信部・国防工業部・国際部・党活動部等に細分化されており*1、これらの部がそれぞれ「うちの部署としてはこういう計画をしています」とか、「こういう案ははどうでしょう」と出す。そうすると書記局はこれらの案を取捨選択し、「書記局としてはこういう案がまとまりました」と政治局に持っていく。
政治局はこの書記局の案を検討し、いいと判断したものに許可を出し、実際の政策執行が進められた。
さて、そうなってくると、政策決定権を持つ政治局がトップのように見えてくる。事実、党創設初期は政治局が最高意思決定機関であり、政治局員に選ばれた党員はまさしくエリート中のエリートだった*2。一方の書記局は中央委員会や政治局のサポートを行うための部署であり、地位的にはそれほど重要ではない。局の長である書記長もしかり。
政策立案に邁進する同志スターリンのお姿
それがなぜトップになったかと言うと、同志スターリンが書記長だったからだ。そもそも同志スターリンを書記長に任命したのは同志レーニンで、これは政策決定の場に自分の側近を配置しておきたい、という狙いからだった。同志レーニンの死後、最高指導者の立場を巡って各派閥は競って政治局をコントロールしようとした。しかし、そもそも特定の長が存在しない一政治局員になれたところで、他の派閥の政治局員と擦った揉んだするだけで、コントロールなんぞできるわけがない*3。そこで、同志スターリンは政治局ではなく、大本の人事権、組織統制権を書記局の扱いにしてしまうことを思いついた。
どのようにして人事権と統制権を手に入れたかはここでは省くが、結果的に書記局が党内における主要な決定権を握ることに成功し、書記長が事実上のトップとなった。さらに、書記長が政治局員を兼任することにも成功し、国家の政策を自分で立案し、自分で検討し、自分で決定するというまれに見る強力なポストとなった*4

*1:日本における各省庁と考えればよい

*2:そのため政治局には特定の長が存在しなかった

*3:政治局内での派閥主義を避けるために、議事手続き上の暗黙のルールがあった。実際の会議中に争いが起きることを避けるため、強い批判はあらかじめ他のメンバーにも伝えておく、というもので、会議では純粋に検討課題のみを議論することが求められた

*4:極端な話、書記長の許可がないと道の舗装もできない