血の日曜日事件

血の日曜日事件」。105年前の今日、金曜日じゃなくて日曜日だったんだなぁ、ということがよく分かる名前である。同じような名前の事件は実は結構たくさんあるけど、考えてみれば日曜日に流血事件が起きれば全部血の日曜日だ。今回は、というか僕のネタなので当然の如く、ロシアで起きた血の日曜日事件

歴史の教科書なんかでも必ず記載されている事件だけど、「デモ隊に向けて発砲してロシア革命のきっかけになったよ」程度のことしか書いていない。軽過ぎる。事の重大さが分かっていない。この事件は、もう本当に革命の原点中の原点とも言えるもの凄い重要なポイントを二つ含んでいるんよ。それとちょっと読み解いてみるぜ。

ポイント1 ツァーリ幻想の終焉

そもそもなんで冬宮殿に向けてデモを行ったか、なんてことはwikipediaにでも書いてあるので読んでおいて欲しいのだが、一応言っておくと「労働者の法的保護」を求めるものだった。ほんでここでの労働者とは、産業革命以降急速にロシアにも造営された大型の工場で働く工場労働者やその原料を作り出す炭坑・鉱山の坑夫を意味する。
ロシアでも19世紀半ばには産業革命の波が来ていて、都市部に限定して言えば結構な数の工場が作られていた*1
その結果として、農村から出てきた貧農*2やもともと都市部にいた職人などが工場労働者や坑夫になった訳だが、この扱いがとにかく悪い。英国やフランスでも工場や炭坑なんかの過酷な労働があったことが知られるが、ロシアの場合は専制政治下でこれが行われるのでたちが悪い。
兵器の生産なんかはとくに力が入れられていた
こうした都市部労働者は反政府運動の温床となっていくわけだが、全部が全部社会革命党のような過激派になるわけでもなく、多くの労働者は素朴なロシア民衆の誰もがそうであったように、「ツァーリに直接お願いすれば、なんとかしてくれる」と信じていた。農奴解放で失望を味わったであろうが、それでも東方版王権神授説的*3な感覚がまだ根強く残っていたわけだ。
時のツァーリはニコライ二世。無害だが有能でもなかったのが不幸
当日デモを主催したロシア正教の司祭で、労働運動の指導者でもあったガポン*4も「皆でツァーリにお願いに行こう!」と言って人を集めていたので、別に鉈とか斧を片手に「ツァーリをぶっ殺す!」とか息巻いていたわけではない。まぁ実際にツァーリにお願いしてもどうにもならないかもしれないが、メッセージのアピールくらいにはなると考えていたのかもしれない。デモ自体もメインイベントみたいな感じで、事件前日とデモ前からゼネストのような集会を開いており、最終日のメインイベントが冬宮殿までの行進となっていた。なんとなくイメージが湧いてきただろう。
さて、合間の話はすっ飛ばして事件後に移ると、結果的にデモ隊の一部に発砲が行われ死傷者が出ることとなる。ちなみに、集会参加者は10万人以上、デモ参加者は6万人ほどで、このうち死傷したのは1000〜5000と言われている。ロシア的に言えば、かすった程...。さて、問題なのは死傷者の人数ではなく、発砲が起きた状況なのだ。「ツァーリへの請願に向かっていた民衆に対し、宮殿警備隊が発砲した」という状況が非常にまずかった。つまり、「ツァーリは労働者の話を聞くつもりがない!」という演出になってしまったのだ。
別にツァーリへの請願で状況が100%変化すると皆が信じていた訳ではないだろうが、ともかくもそんなツァーリへの幻想を完全に打ち砕く事件となってしまった。これを境に「活動」は「革命」へと変化していく*5。ポイントの一つ目、ツァーリ幻想の終焉だ。これは革命において非常に重要な要因の一つだった。ツァーリズムが根強く浸透し、淡くでも残っていたツァーリへの敬愛の念を取り払うのに役立ち、貴族も「ツァーリ」も打倒すべき対象だと印象づけた。
もしこの時発砲が起きず、ツァーリが形だけでもガポンたちに謁見していたら、歴史は変わっていたかもしれない。

ポイント2 暴力装置の必要性

古来、革命が穏やかだった例はほとんどない。大体は二つの派閥のうちどちらかがぶっ殺され、もう片方も散々勢力争いをした挙げ句に消えていく。その過程で必要となるのは暴力装置。もっと単純に言えば、武器を持った連中だ。
初期ロシア革命の指導的立場にあった社会革命党は名前こそ勇ましいが、実態は詩人だの記者だの学生だの落ちこぼれ僧侶だの無職童貞だの、ともかく頭でっかちで冴えない連中が自分の欠点を社会のせいにして管を巻き、爆弾投げ込んで貴族を吹き飛ばしていたボンバーマンのなり損ないのような連中だった。まぁ、そもそも活動の主旨がテロルだったので、社会革命党戦闘団とか実行部隊はいたが、所詮はテロ。ボンバーマンが関の山だ。つまり、エスエルがやっていたことは革命ごっこ、よく言って「反政府活動」にすぎない。
そんな連中を横目に、ある男はこう考えた。
「宮殿の部隊が発砲しただけで、これだけの騒ぎになった。もっと大きな部隊を持ってすれば、プロレタリアートと農民で革命は遂行できる!」
赤軍はまさに革命に必要な暴力装置だった
ここで注意しておきたいのは、当時の「革命」の考え方で、社会革命党にしてもメンシェヴィキにしても、なまじ組織がインテリであるが故に、労働者や農民による革命なんぞ不可能であると考えていた。つまり、中間層にあたるブルジョワジーが革命を遂行し、それを労働者や農民が支援するというブルジョワ革命論。
だが、男ことレーニンプロレタリアートと農民だけで革命が遂行できることに気がついた。つまり、ロシア国内で圧倒的多数の労働者と農民を武装させ、強力な暴力装置とすることで、貴族やツァーリの排除はもちろん、ブルジョワすらも必要のない革命ができる。プロレタリア革命論の成立だ。後の赤軍の構想*6や、労農同盟の考えもこの辺りから始まっている。理論も金もないが、暴力装置さえ用意できれば、革命は遂行できる*7。ソヴィエトの原点ともいえる主張はここで生まれた訳だ。

おわり

繰り返すが、血の日曜日事件ロシア革命にとって重大な事件だった。その後のロシア革命という革命の性質を決定し、ソヴィエトの構想にすら影響を与えたと言っていい。階層の基盤に当たる労働者の離反を招いたロシア帝国は崩壊していき、暴力装置を用意することに成功したレーニンは、その後の内戦や左派各派閥との抗争に勝利する。
同志レーニンの勝利は必然
ロシア革命の前後においてひとつとして無意味な要素はない。全てが革命の結果へと帰結して行く。その根にある血の日曜日事件。みなさんもちょっと思いを馳せてみてはどうでしょう。

*1:ロシア全土に本格的に工場設備が構築されたのは同志スターリン時代

*2:この頃のロシアでは妙に人口増加が激しく、農地不足で小作面積が減少し、只でさえ少ない取り分がより少なくなってしまい、問題になっていた

*3:王権神授説自体は英国やフランスのカトリックプロテスタント的な西欧感覚が強い。実際ロシアで王権神授説が存在していたわけではなく、ツァーリズムの補強のために「東ローマ帝国から続く正教会の守護者がツァーリ」という幻想を作っていたにすぎない

*4:このガポンが実は曲者なのだが、それはまた別の時に話します

*5:事件からおおよそ一ヶ月後の2月17日には、ニコライ2世の叔父にあたるセルゲイ大公が馬車に爆弾を放り込まれ爆殺される。犯人は社会革命党(エスエル)の党員だったカリャーエフだった

*6:労農人民は赤軍であり、赤軍は労農人民。国民皆兵、というより国民全部暴力装置という発想

*7:すっぽ抜けているのは暴力装置の統制方法だが、幸いレーニンにはトロツキーがいた