ソ連視点で見る大祖国戦争-第二次世界大戦前後 その1

米露中日に囲まれて恐怖のあまり核兵器に手を出すというのは、微妙に今回のお話に似た感がある。まぁソ連邦よりはるかに計算が拙いけど。


そんなことはどうでもよくて、1938年頃のソ連邦の気持ちになってみたい。「おーしゅーじょーせーはふくざつかいき」とかぬかして辞職した首相もいたようですが、実は大戦前後の欧州情勢ってのはソ連視点で紐解くと非常に単純明快なのですよ。今回はソ連邦から見たお話。
1938年というとドイツがアンシュルスしたり日本が中国でブイブイ言わせたりと、アゲアゲ状態だった頃。ついでにポーランドチェコスロヴァキアをゆすってみたりと、何かと皆が熱かった時期だ。ざっと日独の動きに絞って見ても、

月日 あったこと
1月16日 近衛文麿色々面倒になって「国民政府を対手とせず」発言
3月13日 ナチス・ドイツオーストリアを併合(アンシュルス)。カンガルーがおらずがっかり
6月13日 NKVD幹部リュシコフが満洲に亡命。逃げる場所を間違えたな
9月29日 ミュンヘン会談。腰抜けどもめ!!
10月2日 ポーランドチェコスロバキアのテッシェン地方を占領。ちゃっかりさん
11月9日 ドイツで水晶の夜事件。名前だけはエロゲみたい
12月4日 日本軍、重慶爆撃開始。特にコメントはない


騒がしいことこの上ない。
何が言いたいかというと、ソ連邦から見ればもはやこれは非常事態。だって西も東も軍事力でガツガツした連中ばっかり。怖くないわけがない。「仲良くしようね」「うん」で済んだら人類の歴史はもっと可愛らしいものになったんだろうけど、そうは問屋が卸さなくて未入荷残念この上ない。



なぜ人は争うのだろうか、と思い悩む同志スターリン


この時期のソ連邦は内戦が一段落して、諸々の準備が整ったレベルであり、「お前らがやる気ならこっちもやったるけんのう」という状態ではない。従ってよく言われるような拡張政策が云々なんてこと言ってる場合でもなく、危険な軍国主義二国に挟まれていかに国を守り生き残るか、の一点に尽きる。特に東方に固執していたドイツが侵攻してくるのは明白。そこで立てられたのが、集団安全保障構想だ。英仏を巻き込んで*1未来の脅威を包囲して対抗しようというアイデアで、ソ連邦にとって一番現実的な防衛手段でもあった。なんで英仏かというと、この二つがドイツに近く、かつ海軍最強国家と陸軍最強国家(ということになっていた)だから。
この構想の実現に向けてソ連邦外相だったリトヴィノフが熱心に英仏を回ったわけだが、英仏ともにソ連の誘いには冷淡だった。むしろソ連・ドイツの衝突共倒れを狙っている節すらある。
ちょっと後の話になるけど、イギリス軍がダンケルクの崖から叩き落された時にチャーチルはこう言っている。
ヒトラーは英国に来て、負けるだろう。そしてソ連へ向かう」
前半はただの負け惜しみ。チャーチルの真意は後半だ。反共でありながらドイツと敵対するというジレンマを抱えていたチャーチルにしてみれば、あわよくばまあ共倒れになれば良いと思っていたはずだ。結局ミュンヘン会談ではヒトラーに甘い顔をしてみせるなど英仏はまったくあてにならず、構想自体が実現しないことが明白になった。



トミーガン片手に自ら赤狩りを行うブルドッグ


ここから、もはや手段を選ばない祖国防衛のための施策が始まるんだけど、とりあえず今日は集団安全保障構想の挫折まで。ソ独不可侵条約、ドイツの欧州侵略、日本の中国侵略、ハルハ川の衝突とソ日中立条約締結くらいまでは書けたら書く予定。

*1:アメリカはこの構想に含まれていない。孤立政策の国と思われてたから