祖父と真珠湾と指宿と

今日は12月8日。ジョン・レノンの命日と言いたい所だが、やはりここは真珠湾攻撃の日。これは譲れない。そして僕の大好きな母方の祖父ちゃんの初の実戦の日でもある。あの日一緒に飛び立った戦友は、みんな自分より二階級上になってしまったと祖父ちゃんは嘆く。そんな状況は僕に想像もできないんだけれど(例えば高校の同級生が、自分以外誰も生き残っていないなんて想像できます?)、だからこそ聞き取って記憶しておかなきゃいけない。

真珠湾

真珠湾の話自体は、それほど物珍しいものでもない。空母から飛び立って、地上目標を攻撃するのが第二波空中攻撃隊の祖父の役目だった。初めて見る外国で、ちょっとワクワクしたそうだが、実際上空につくと煙と炎と飛び回る味方機で、海外旅行気分を味わうような状況じゃなかった、と語る。当たり前だ。
祖父が海外旅行でハワイを訪れたのはそれから60年以上経ってから。何を思ったかアリゾナの慰霊碑に行ってみると、そこにいたガイドの爺さんがネバダの乗組員だったそうな。妙な縁もあるもんだ。
本当はもっと色んな話があるのかもしれないのだけれど、あまり聞いていないので、これくらい。

指宿

ハイクでは書いた話ですが、指宿(いぶすき)って知ってます? 鹿児島県の南端にある町です。特攻隊の基地というと、知覧が有名ですが、あっちは陸軍。海軍の特攻だと神雷部隊なんかが有名ですが、指宿にも海軍特攻隊の基地がありました。
指宿の悲壮さは、その使用した機体にあります。航空機の特攻といえば、零戦などの戦闘機が爆弾を抱えて突っ込む所を想像しますが、ここでは下駄履きの水上機特攻機に使用されました*1
零式水偵は800kg爆弾一発、九四式水偵は500kg爆弾一発、零式観測機は250kg爆弾一発を抱え、指宿基地を中継基地として夜に月明かりをたよりに出撃し、沖縄周辺海域に展開する米軍艦船の輸送船を攻撃することが任務だったわけです。お世辞にも快足とはいえない水上機で、夜間とはいえ重い爆弾を抱えての特攻。成果はいうまでもありません。

前置きが長くなりました。
祖父ちゃんが台湾沖航空戦から生還し、神雷部隊の直援となる少し前のこと。予科練でお世話になった先輩から、突然連絡が来たそうです。
「飛曹と飲みたいので、是非指宿まで来い」
指宿は最初から特攻機の基地として使われていた訳ではありませんが、この時期は既に特攻訓練が行われており、どうなるのかは明白でした。
祖父ちゃんは自分が飲めないのに酒を買い込んで、先輩を訪ねました。これから出撃する人に飲めませんなんて言えない! と思い一緒に飲んでいると、
「飛曹は時計を持っているか?」
と先輩が尋ねたそうです。祖父ちゃんが自分の腕時計を見せると、
「こんな時計では恥ずかしかろう。自分はもう必要なくなったから、形見と思って受け取ってくれ」
と腕時計を渡してくれたのです。祖父ちゃんは、
「では、お預かりしておきます」
と受け取りました。


しばらくして、祖父ちゃんに指宿から連絡があり、件の先輩のご家族が遺品を引き取りにきたので、「友人であったお前が渡せ」と言われそうです。そんなこと頼まれても嫌な仕事です。最初は断ったらしいのですが、結局祖父ちゃんが遺品を取りにきた妹さん*2とお母さんに会うことになりました。
思い出話などを基地近くの食堂でして、一通り遺品をお渡したところで、祖父ちゃんは時計のことを思い出し、
「お預かりしておりましたので、お返しします」
と差し出した所、先輩のお母さんはこう言われたそうです。
「息子があなたに形見と差し上げたもの。それを返してなどいただけません。持っていてやってください」


さて、ここで「これがその時計です」とかなれば良かったのですが、残念ながら時計はもうありません。
な ぜ か。
戦後の無一文で喰うにも困っていた時、時計を質に入れてしまい、その後売られてしまったらしいのです。祖父ちゃん!! お陰で餓死はせずに済んだと考えれば、先輩に命を救われたのかもしれませんが......。

指宿海軍航空基地 愛惜の碑

君は信じてくれるだろうか
この明るい穏やかな田良浜がかつて太平洋戦の末期
本土最南端の航空基地として琉球弧の米艦隊に対決した日々のことを
拙劣の下駄ばき水上機に爆弾と片道燃料を積み
見送る人とてないこの海から万感をこめて飛びたち
遂に還らなかった若き特別攻撃隊員が八十二人にも達したことを
併せて敵機迎撃によって果てた
百有余人の基地隊員との鎮魂を祈ってここに碑を捧ぐ

*1:海軍の特攻は原則としては新造機で行われるものでしたが、沖縄戦初期になると訓練中の搭乗員を旧機材に乗せて特攻を行うようになります

*2:祖父ちゃん曰く、凄い美人だったとか