Fallout 3とか

Fallout 3なかなか面白いです。よくできてるし、世界観づくりが上手いんですよね。作業感と制作者に遊ばれてる感もよく両立してるし。クリーチャーのキモさも素晴らしいし。もっとFPSっぽいかと思ってたんですが、確かにRPGですよ、これは。公式サイトの宣伝コンテンツは面白くないですが。
このところ殺伐としたネットの戦場で、エア殺し合いをしていたので、こういう自分一人で黙々とエア殺し合いするゲームは清々しいですよね! 日本のゲーム会社もガンガレ。


あと気になるのが、Demon's Souls。
Demon’s Souls | ソフトウェアカタログ | プレイステーション® オフィシャルサイト
見た感じはキングスフィールドとかベイグラ的な、日本製RPGの暗さが漂う感じでしょうかね。Falloutとかディアブロとは違う暗さ。ネットワークを使ったシステムが凄く気になっていて、これが上手く機能していれば凄い良ゲーなのではないかと期待大。LAN挿すだけでネットワークに繋げちゃう時代ですし、RPGでも他のユーザーと繋がっていくのもいいんじゃないでしょうか。 

『権力への上昇 - ゲオルギー・マクシミリアーノヴィチ・マレンコフ死後20年によせて』

Власти Мьянмы отпустили приговоренного к тюрьме американца - МК
 かつての共産党の活動家ゲオルギー・マクシミリアーノヴィチ・マレンコフについては、あまり知られていない。スターリンの最も近しい戦友であった彼は、ソ連邦の歴史上最も謎めいた人物と呼ぶことができるだろう。一部の歴史家はマレンコフを冷酷な大量殺人者の一人に含め、またある人々は彼こそが「雪解け」の真の父と呼ぶ。
今、かつて強権を誇ったその党員の死から20年の日を迎えた*1。「政治」の姿をしたオリュンポス山での彼の急激な上昇と凋落を、彼の息子であるゲオルギー・マレンコフがモスコフスキー・コムソモーレツ紙のインタヴューで語った。


 記者:ゲオルギー・ゲオルギエヴィチ*2、当時を知る多くの人々の中で、あなたの父の名前は1930〜50年代の大粛清に強固に結び付けられています。彼はこれについて何か語っていましたか。
 ―父が銃殺を命じた書類に署名したかどうか、私は知りません。粛清に実際に参加したのかどうかも……。家でそのようなことを話し合うことはありませんでした。年金生活に入ってからも父は稀にしか自分の仕事のことを話しませんでした。60年代の初めくらいに祖母から、フルシチョフは父が粛清に関与した証拠を探し出すことを諦めていない、と聞かされました。ただ、父は敵視され粛清された古参党員ではなく、新しい時代の党幹部として、あの時代に働いていたのです。私が知っていること、人々に言えることはそれだけです。ソヴィエトの中枢で起きていた事柄について、私はスターリン死去直後までしか知らないのです。
1953年に父はアメリカの雑誌『大衆の声』をくれました。そこには1946年から1956年まで*3ヴォロクター近郊のラーゲリに収容されていたアメリカの将校が書いた体験記の抜粋が発表されていました。その将校は記事の中で自分の身に起こったことについて、詳細に書いていました。父もその記事に目を通したようですが、私には何も言ってくれませんでした。私はそのとき初めて、そのようなラーゲリ*4が存在することを知ったのです。


 記者:マレンコフ一族はどこから来たのですか。また、ゲオルギー・マクシミリアーノヴィチはどのようにして政界に出たのでしょうか。
 ―マレンコフ一族はマケドニアから来ました。一族の言い伝えによると、初代マレンコフがロシアにやってきたのは19世紀前半のニコライ1世の時代です。一族が最初にどこに住んだかは分かりませんが、父は曾祖父が守備隊長を務めたオレンブルグに生まれました。祖母によると、父はよく知られている彼の履歴に書かれている1月8日ではなく、7日*5に誕生しました。これは父を教会で登録するときに、補祭が数を間違えて誕生日を8日としてしまったのです。
父と彼の二人の兄はオレンブルグのギムナジヤ*6を卒業しました。しかし卒業直後、父は赤軍に志願し、騎兵隊に勤務しました。オレンブルグ、西カザフスタンを転戦したそうです。内戦の終わりにニージニィ・ノヴゴロド生まれのヴァレーリィ・アレクセイエヴナ・ゴルフツォーヴァ、後の私の母と知り合いました(母は貴族の家の生まれでした。)その頃彼女は中央アジアを走り回っていた宣伝列車での任務に就いていました。
内戦が落ち着くと、二人は一緒に暮らし始めました。随分後になって聞いた話ですが、両親は終生、公式に結婚の登録をしなかったそうです。

赤軍を辞めた後、父はモスクワに出てモスクワ高等技術専門学校に入学しました。父がこの高専を卒業したかどうかは知りません。ただ、父は、K.A.クルーグ教授が大学で研究をするように誘ってくれたと言っていました。しかし父は他の道を選び、党幹部への道を歩み始めました。
祖母は父が政治家になることを望んだのだそうですが、死の直前、父には研究者への道を進めてやるべきだった……、と悲しげに言っていたそうです。


 記者:モスクワに移られてからは、どこに住んでいたのですか。

 ―最初はムィトナヤ通り沿いに住んでいましたが、父が中央委員*7に選ばれた1939年に、私たちはグラノフスカヤ通りにある、中央委員会事務所の近くに引っ越しました。下のフラットにはブジョンヌイ一家が、上にはフルシチョフ一家が住んでいました。フルシチョフとブジョンヌイの記念碑はここにありますが、今に至るまでなぜか父のことを示す記念の銘板はありません。このアパートに私たちは1954年まで住んでいました。

1954年からはポメラニツェフ横丁の二階建ての気持ちのいい邸宅に引っ越しました。隣の小さな家にフルシチョフ一家も引っ越すことになり、私たちは一緒に引っ越しました。しかし、そのあとすぐに再び引っ越しました。次の住処はレーニン*8にある邸宅で、父が党のあらゆる職務から解任された1957年までそこに住みました。
夏と休暇の頃には、モスクワ郊外にある二階建てのダーチャ*9ですごしました。父は家と全てのダーチャに直通電話と外国との直接通信装置を置いていました。けれども、私たち兄弟は自由に父の部屋に入ることができました。
父が休日にダーチャに来るときには、常に分厚いファイルを持った大佐が随行していました。書斎に座って書類に目を通す父を今でも思い出します。ときどき何かを見せてくれたこともあります。そう、スターリンの死の直後、私が15歳の生徒であった頃ですが、私にベリヤ*10に関する未公表の資料を見せてくれました。父は私たちがベリヤについて知ることを望んだのでしょう。その時に、ベリヤが権力を奪取しようとして政敵たちに敗れ、逮捕されたということを読みました。


 記者:あなたの父はスターリンについてどのように言っていましたか。

 ―私は、父がスターリンの死後、彼について話すのを嫌がっているような印象を持っていました。とは言え、父は常にスターリンに関する何かしらを思い出していたようです。
あるときスターリンは父に言ったそうです。「党員の一人がある問題に通じていなかったとしても、それはエチオピア皇帝が高等数学に不案内なようなものだ」と。父は長い間この言葉が人間について何を言わんとしているのか、理解できませんでした。*11
興味深い偶然ですが、戦争中スターリンは父の命を救ったことがあります。当時父はスターラヤ広場にある共産党中央委員会の建物で働いていましたが、スターリンクレムリンで働いていました。あるとき、スターリンは何かの問題で父を自分のところに呼び出しました。
父がクレムリンについたときに空襲警報が発令されました。後になって分かったことですが、爆弾のうちの一発が中央委員会の父の執務室に命中していたそうです。炸裂こそしていませんでしたが、執務室は完全に破壊されていました。もし父がそこにいたら、非業の死を遂げたことは間違いないでしょう。


 記者:党幹部の中では、ゲオルギー・マクシミリアーノヴィチの友人はいたのですか。また他の幹部とはどのような関わりがありましたか。

 ―私たちの家にはニキータ・フルシチョフがよく来ていました。ブジョンヌィ一家とも家族ぐるみの付き合いがありました。それ以上のことは知りません。
そう、ただ父が内務人民委員ニコライ・エジョフ*12逮捕の指令に関わったことは間違いないと思います。ある時、父は1938年にスターリンに直筆の報告メモを出したことを語りました。そのメモには多くの無実の党員がエジョフの指示で違法に逮捕され、銃殺されたことを記していました。スターリンは黙ってメモを読んだあと、こう言ったそうです。
「これを全部あなたが書いたのかな?」
「はい。私が書きました」
「誰かに見せてはいないだろうね?」
「見せていません」
「うむ、いいだろう」
その直後にエジョフは逮捕され、銃殺されました。


記者:1953年のスターリンの死後、マレンコフは閣僚会議議長*13に任命されました。なぜ彼はこの最高ポストにとどまることができなかったのですか。

―父は優秀な管理者でしたが、策略家ではなかったのです。フルシチョフは(彼は1953年9月に中央委員会第一書記に就任しました。)他者と権力を全く分割ようとはしない人物でしたが。
かつて、父とフルシチョフは友達づきあいをしていたように思います……。ただ、父とニキータ・セルゲイエヴィチ*14は性格と教養のレベルが全く違っていました。フルシチョフは父の成功を妬んでいたのかもしれません。父は人民の間で高い人気があったからです。父は閣僚会議議長の職にあったとき、農民の税負担を軽減し、重工業の平和産業への切り替えプロセスを開始しました。この政策は1955年1月ソヴィエト*15で非難され、父はまもなく辞任し、その地位をニコライ・ブルガーニンに譲りました。
それでも、初めのうち父はソ連邦発電所大臣という職務にありました。二年後、まったく突然にカザフスタンに派遣されました。ウスチカメノゴルスク水発電所、そのあとエキバストゥーズ国立地方発電所長を務めるためです。このとき、私たちは初めて父と仕事のことについて話し合いました。
1961年、父は党を除名されました。それからの父は復権に向けた努力を一切しませんでした。すでにフルシチョフの作り上げたクレムリンの中に入り込むことができなくなっていたのです。
姉の回想によると、フルシチョフが更迭される少し前にエキバストゥーズに電話があったそうです。母が電話を取ると、電話の人物はフルシチョフの助手を名乗り、父にモスクワに戻ってくるようにとのフルシチョフのメッセージを伝えてきました。父に再び党の要職につくように申し出てきたのです。ニキータ・セルゲイエヴィチは父と相談することを望んでいて、父に受話器を渡すように頼まれました。父はこの伝言について、「その男と話すことなどない」と言い放ちました。


 記者:晩年の彼はどのようなことをしていましたか。

 ―カザフスタンへの11年間の「流刑」の後、1968年にモスクワに戻りました。祖母が死に、父は葬儀に行ってそのままモスクワに留まったのです。フルンゼンスキー区の姉のアパートに住居登録したのですが、ほとんどの時間をカザン通り沿いにあるダーチャで過ごしました。そのダーチャはマケドンカ(マケドニア人)川沿いに建っていたのです。父はこのことにある種の運命を感じていたようでした。

政治の議論には一切口出ししませんでした。ただ一度、エドゥアルド・シュワルナゼが外務大臣になったときに、「ほう、そりゃ面白い!」と言いました。父がこの人事を称賛していたのか、そうでないのかは分かりません。
1988年の自分自身の死の直前まで、彼はしばしば子供時代のことを、また稀に内戦時代のことを思い出していました。それから、よく基礎科学の本を読んでいました。特に重力理論や相対性理論に興味を持っていました。そういえば、姉の話によると、父は赤軍騎兵隊に務めていたときには、いつも赤軍兵士のための物理の参考書を書いていたそうです。


 記者:ゲオルギー・マクシミリアノヴィチの子孫たちのなかで政界に進んだ人はいますか。

 ―いいえ、誰もいません。私は結晶学の教授で、兄は生物物理学者、姉は建築家です。よく知られたこの姓は私にとって実に煩わしいものですが、何の役にも立ちません。大学院で私のポストは与えられませんでした。
私がモスクワ国立地質学部三年生として学んでいた50年代の終わり頃(両親はまだその頃カザフスタンにいました。)に、とても印象に残る事件がありました。大学に南アフリカから教授が来ていました。この専門家は英語で講義を行い、私にそれを通訳するよう頼みました。講義の後で、この外国人は私の名前を見て、大声でびっくりして叫んだのです。
「マレンコフがシベリアに送られていないとは! ソ連邦のことを見直したよ!」
と。

*1:マレンコフは1988年1月14日に亡くなりました。この記事は去年掲載されたものです。

*2:ゲオルギー・マレンコフの息子のゲオルギー氏、という意味の丁寧な呼びかけ。ロシアでは目上の人にはこのように語りかけます。

*3:原文ママなのですが、53年にもらった雑誌に56年の体験は書けませんよね。

*4:ラーゲリはロシア語で「キャンプ」の意。氏は雑誌の記事によって「矯正収容所」として機能するキャンプがある、ということを知ったということです。

*5:ユリウス暦グレゴリオ暦では1月12日

*6:中等教育学校。中学校みたいなものですが8年ほど通います。結構難しいことを勉強するエリート学校です。

*7:党の最高意思決定機関、中央委員会の委員。

*8:現雀ヶ丘。モスクワが一望できる住宅街。

*9:菜園付き別荘。

*10:ラヴレンチー・ベリヤ。最後の内務人民委員。数少ないマレンコフの支援者だったと言われています。

*11:僕もよく分かりません。どのような地位にいても相応の知識あるいは役割で十分、ということでしょうか。

*12:内務人民委員部とはNKVDのこと。後の内務省。エジョフは2代目の人民委員です。歴代人民委員は全員がその後任者によって逮捕、粛清されています

*13:ソ連邦首相のこと。

*14:フルシチョフの呼び方。

*15:国のことではなく、連邦の最高会議である最高ソヴィエトのこと。

翻訳

昨日の今日で、モスコフスキーのインタビューを徹夜気味で意訳してみました。
マレンコフの生い立ちから、スターリンとの会話、フルシチョフとの確執など、非常に貴重な記録です。是非翻訳して、保存しておきたいなと思った次第。記事についたコメントもなかなか興味深いので翻訳しようかと思ったのですが、かなりのコメント数なので、いずれまた。
久々に長文を読んだので、結構怪しいところもありますが、意訳ということで……。

父と子とか

かなり貴重なインタビューだと思うので、ダイアリーでも紹介。
Власти Мьянмы отпустили приговоренного к тюрьме американца - МК
マレンコフの息子であるゲオルギー・マレンコフ氏へのインタビュー。ゲオルギーの息子のゲオルギーさんなので、ゲオルギー・ゲオルギエヴィチ。ややこしい。ほとんど直訳状態で記事の一部をハイクに載せていたのですが、何だか読みづらいので、きちんと訳してダイアリーの方に載せようと画策中。


歴史上の人物の姿を知る上で、息子とか家族の証言っていうのは非常に貴重だと思うわけです。家族の証言なのだから、信用できないとか、その証言をどう思うかは自由ですが。
例えば、スターリンの娘であるスヴェトラーナは、彼が非常に子煩悩なよき父親であった、と証言しています。*1ベリヤの息子も、父は決して残忍で好色家だったわけではない、と言っています。メンゲレの息子は、父親に対する複雑な心境を吐露していましたね。映画にもなっていたり。

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なんでチャールトン・ヘストンがメンゲレなのかよく分かりませんが、トーマス・クレッチマンがかっこいいのでよし。結構面白いです。メンゲレの息子も、ベリヤの息子も回顧録を出版しているので、映画とかよりそっちを訳して是非出して欲しいのですが、生憎と黒いテーマだからか、邦訳はありません。
息子とか娘から見た親って、最も身近にいる壁というか、特に子供の頃とかは、親ってのは意識してしまう対象じゃないですか。だから、結構冷静に観察していると思うんですよ。ましてや、自分の父親が外で何してるかなんて、子供の頃は詳しく知らないでしょうし。ある意味で、資料とかを基に人物を量っている僕らよりも、彼らの方が中立的な視点かもしれないですよ。
ともかく、教科書に載るような人を親に持つと、息子は大変だなぁと思うわけです。
ステロタイプなイメージだと、独裁者とかの子供ってなんだか親に似そうですが*2、上記のような普通な人たちもいるわけで、そういうのはどういうところで変わってくるんでしょうね。

*1:スターリンが彼女を「奥様」と呼び、倒錯した愛情を注いでいたのは秘密。

*2:そういやウダイとクサイとか絶望的な名前した独裁者の息子もいた気がしますが、あの2人も殺さずに捕らえて、話聞くべきでしたね。

砂漠で紅茶

結構アバウトな砂漠パスタ話だったのに、皆さんに読んで頂いたようなので、もうちょっと掘り進めて、「そもそも砂漠でパスタの元ネタは?」という所を攻めてみましょう。
そもそもイタリアってなんかグルメそうだし、しかも”あの”イタリアなんだからパスタぐらい食ってたんじゃねーの、という偏見もあると思うのですが、フィールドキッチンすら配備できていなかったイタリアの食糧事情は最低でした。グルメとは程遠い。せっかくのフリーズドライもトブルクに積んだままでしたしね。もったいない。

茹でないパスタ説

さて、砂漠パスタの元ネタの可能性のひとつが、「非常食として持ち込んでいた茹でないパスタ」というやつです。これ海外の軍事フォーラム眺めていて、たまたま目に入った書き込みなので、出典とかさっぱりです。ただの与太話っぽくもあるのですが、ふと焼きパスタ(揚げパスタ?)が思い浮かんだので、意外と真実味あるかもと考えたわけです。
よくあるじゃないですか。イタリア料理屋とか居酒屋でおつまみメニューにあるパリパリに焼かれた茹でてないスパゲッティー。あれなら乾燥に強そうだし、火を通してるからちょっとは日持ちもしそうです。短く切りそろえて、一包みにすれば、ビスケット的な食料にはなる気がしませんか。ちょっと量は少ないですが。

塩水デター説

これはANGELINIから出てるアフリカ戦線記録集みたいな本に書いてあった話なんですが、「井戸を掘ったところ飲料には適さない塩水が出たので、その水でパスタを茹でた」とか。確かにアフリカで井戸掘ってたら、塩水出ちゃったとか話は聞きますが、砂漠のど真ん中で井戸掘らないですよね。仮にオアシスとかの近くで掘ったとして(なんでオアシスの井戸使わなかったかは別にして)、そういう場所で塩水が湧くんですかね。
そもそも、この話だと「砂漠でパスタを茹でた」ことへの上手い理由づけにはなっていても、パスタをいかにしてそこまで持ち込んだかが不明でなんとも言えないです。

イギリスのデマ説

結構個人的に濃厚だとなのが、イギリスのデマ説。当時英国には英国軍政治戦委員会というのがございまして、心理戦で敵地で意図的に流す噂を毎日真面目に考案していたんです*1。要は敵の悪口流すんですが、「イタリア軍兵士たちは連合軍機が空からばらまく投稿票では足りずに自分たちでも印刷している」 なんて噂を流していたくらいですから、当時のイギリスでも「イタリアはヘタリア」と認識していたようです。
このノリで、同盟国イタリアを貶めるためにドイツに対して「イタリアは砂漠のど真ん中でパスタ茹でてたんだってよプギャー」とか噂を流していたとしても、十分あり得そうな感じです。でも、砂漠でパスタって洋書で目にしたことがないので、実際のところそういう噂を流していたかどうかは微妙なところ。

ドイツのなすりつけ説

これもイギリス説と並んでありそうな感じ。敗戦国にはありがちな傾向ですが、負けたことを誰かのせいにしちゃう、というあれです。「アフリカで負けたのはイタリアのせいだよ!」ってしちゃう。精強なドイツ軍は質では勝っていたが、数と味方に負けたのだ、みたいな。あるいは、途中で鞍替えしたイタリアに対して良い感情は当然持てないでしょうから、その批難の意味での悪い噂。
ただ、北アフリカでのイタリア軍の戦いぶりは工兵*2、山岳兵*3、空挺師団*4と結構賞賛されているのも事実。特に、ドイツの野戦将校が指揮したイタリア軍部隊はドイツと同等に戦い抜いています。最終的に「敵」になったとはいえ、共に戦った戦友を貶めるようなことはしないでしょう。


どうでしょう。なんか納得できる説ありました? 「いやいや俺の持ってる資料じゃこうだ」とか「こんな説も」とかあったら教えてください。

*1:アメリカなら戦略事務局士気操作部。

*2:ハルファヤ峠で88ミリを擬装したのはイタリア工兵部隊です。

*3:帽子に羽根付けたアルピーニが有名。現代のイタリア山岳兵なら間違いなく最強だと思うのですが。

*4:フォルゴーレ!

砂漠でパスタ

それはさておき、パスタですよパスタ。イタリアといえば砂漠でパスタだろーってどっかの模型誌とかミリネタ誌でライターが真面目に書いて、翌号で謝罪記事載せちゃうくらいにメジャーなネタですよ。
まぁどこまでがネタでどこからが事実か正直僕もよく分かりませんが、個人的には食ってないんじゃないの、と思うわけです。昔年鑑を読んだ時に、糧食としてパスタが入っていたのを見たことあるんですが、仮に北アフリカまで運んだとしてそいつを食ったかどうかは全然別ですよね。北アフリカの戦時記録って結構豊富なんですが、シチュー不味いとかそういう話はあっても、パスタ食ったって話がないんですよ*1
例えば、一応事実で結構有名な「砲弾よりワインが多かった!」ってのも、「降伏した部隊の物資を見たら云々」ってネタ話で聞くと、何だか砂漠のど真ん中に積み上げられたワインを想像しますが、僕の知る限りの話じゃコンパス作戦の折、トブルク占領した英軍が物資の中にワインがあるのを見つけて、「わーい」ってな話。別に砂漠のど真ん中でワイン見つけたわけじゃないんですよ。

話はパスタに戻りますが、仮にパスタを持ち込んだとしてたとして、「どう前線に運ぶのか」が問題になるわけです。アフリカにパスタ持ち込んだからって、そっからまたさらに前線に運ばないと、砂漠でパスタ食えないでしょ? そりゃフィアットランチアのトラックで運んだんだろ、って北アフリカに展開していたイタリアには兵員輸送車両がほとんどなかったので*2、トラックか徒歩が人員輸送の主力なんですよ。そのせいで補給が滞りがちだったことを考えると、とてもじゃねえがパスタだけは上手いこと前線に届いてました、なんて思えないわけです。
イタリア軍は荷揚げを主にトリポリベンガジで行ってたわけですが、トリポリはともかくベンガジは英空軍の制空域に近くて、ほとんど港湾能力が死んだ状態。ほんでほとんどトリポリから運ぶことになるわけですが、例えばトリポリ-アレキサンドリア間だと1900km弱あるんですよ。1900kmを貴重な燃料使って運びます? パスタとか。まして、ドイツはどっかのお馬鹿さんがやたらめったら戦線を押し広げるもんだから、もう補給線びよんびよん。あっちゃこっちゃに散らばった各前線部隊にパスタいちいち運んだとは到底考えられません*3。運び込まれたパスタはトブルクやベンガジの港で傷むにまかされたんじゃないでしょうか。
何だか壮大な話ですが、要は当時の北アフリカ戦線って補給環境が超劣悪だったんです。ドイツもイギリスもイタリアも港までは物資を運べても、そこから戦線へ運ぶ手段がガッタガタ。片方が攻めて補給切れたところで、反撃。補給切れたところで反撃、なんて効率悪いことやってたわけです。先に力尽きたのは港湾施設を効率よく押さえられず、しかも前進大好きだったドイツってなわけ*4

結論ですが

  1. 多分北アフリカにパスタは持ち込まれている
  2. しかし、当時の補給の問題から荷揚げされた場所から動いていない
  3. イタリア軍がパスタを食べてはいたかもしれないが、それは前線ではなく港湾設備の近く

こんな感じでしょうか。

*1:もちろん、記録がないからって食ってない証拠にもなりません。

*2:ドイツもだけどね!

*3:ドイツの場合、補給物資を輸送するだけで燃料の30〜50%食ったっていうから恐ろしい。

*4:東部戦線の10倍の輸送部隊ぶち込んでるんだから呆れちゃう。おいおいてめーのとこは3個師団だろ?

バルボ

ちょっと真面目にイタリア・ファシズムを調べなおしてたんですが、結局ドゥーチェとバルボとグラムシくらいじゃねーの、というオチ。英語の資料だと大体がバルボかグラムシなんですよ。イタリア語の資料なら大量にあるんでしょうけど、そもそもどういう言葉で調べればいいのか分からないので爆死。日本語に堪能な共産趣味者のイタリア人の人いたら、ファシストの資料ください。